映画(感想)

「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」感想/レビュー/考察 ――”名乗り”と”血筋”――

 スターウォーズ最新作、「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」。その感想。ネタバレあり。

※筆者はスターウォーズのファンですが、これといって作品に対する深い専門知識を持っているわけではないため、多くの事実誤認が含まれる可能性があります。

 また、鑑賞してから少し時間が経っている、などの理由から、本作の整理に何らかの事実誤認が含まれていている可能性があります。

 また、以下では過去のシリーズをエピソードに冠された数字で表しています。それぞれが次のように対応しています。

6…スターウォーズ/ジェダイの帰還

7…スターウォーズ/フォースの覚醒

8…スターウォーズ/最後のジェダイ

9…スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け←本作

とりあえずの総評

 結構よかった。何個かのシーンで泣いた。テンポがよく、飽きるシーンがなかった。それなりに長い上演時間(2時間20分くらい)だけれど、最後の方は「もっと長くやってくれー」と思ったりした。

 強調したいのは、とりあえず結構よかったとは思ったということ。それをふまえて、それでも思ったいくつかのことについて。

最初に9のオチを決めてから、逆算して7・8をやってほしかった

 何よりこの感想。

 今回の9での軸の一つは、レイの出生について。8が公開するまでは、なんだかんだルークの娘説とか、レイの出生についてはいろんな説が出てた。けれど結局8で、レイの両親は「何者でもないただの人」だったことが判明。

 しかし一転、今回の9で、レイがなんとパルパティーンの孫であることが明かされる。パルパティーンが登場することは事前の予告編などから推測できていたし、別にレイがその孫でもいいんだけど、もしそういう設定にするなら、それありきで7,8と進めてほしかった。

パルパティーンがまだ生きているという事態

 8であっけなく体を真っ二つにされてしまったスノークが、実はパルパティーンの幻影?操り人形?的な何かだったことも判明。つまり続三部作(7・8・9)での敵の正体はパルパティーン。

 しかし、パルパティーンは一度6でダース・ベイダーに落とされている。確かにその後どうなったのかはよくわからないけど、一応ベイダー=アナキンが「フォースにバランスをもたらすもの」という役目を果たした、ということになっているはず。

 けどやっぱり生きていましたというのが今回。巨大な生命維持装置的なものにつながれているから、やっぱりいちおう“生きている”のか?っていう感じの見た目で登場。とにかく、いなくなった皇帝がまだ生きていて、それが急に9になって出てくるという構造になっている。

レイの親について

 レイがパルパティーンの孫ということは、レイの親はパルパティーンの子供ということになる。今回一瞬レイの親が回想で出てくるシーンがあるんだけど、そこにいるのは、ほんとに「何者でもないただの人」って感じの夫婦。あのどちらかがパルパティーンの子供なのだろうか。あきらかにそういうオーラは感じられなかった(見た目の問題だけど…)。

 もしパルパティーンの子供だけど、闇の力を恐れて(否定して?)パルパティーンと縁を切った的な設定なら、あの皇帝パルパティーンと縁を切れるって相当な実力というかパワーがないと無理ではと思う。

ルークが結局何をやっていてどこまで情報をつかんでいたのか

 7では冒頭でルークが消えたことが判明して、本人はその最後のシーンに登場するのみ。8では割とがっつり登場して、最後にフォースと共になる。今回の9では、ルークは思っていたよりもあまり登場せず、ルークが引きこもっていた島にレイが立ち寄った時に登場するのみ(だと思う。ちなみに若いころのルークとレイアが出てくるシーンもあった気もする)。

 しかし、レイたちレジスタンスの一行が、パルパティーンがいる星「エクセゴル」への行き方を見つけるみたいな話のときに(この話が今回の前半の軸)、それがルークがもともとやっていたこと?が明かされる。

 ここで思うのは、ベン・ソロ(=カイロ・レン)との師弟関係が消滅してからレイが訪ねてくるまでの間、ルークは結局何をやっていて、どこまで情報をつかんでいたのだろうということ。たしかレイがパルパティーンの孫だという話は実はレイアはもともと知っていたみたいな話が出てくるが、そのこともルークは知っていたのだろうか。

“スカイウォーカーの夜明け”とは何だったのか

 今回のサブタイトルである、「スカイウォーカーの夜明け」(原題:The Rise of Skywalker)。では、“Skywalker”が“Rise”するとは、結局何を表していたのだろうか。

 まずは、レイがパルパティーンと競り合っているシーン。そこでレイが倒されかけて、地面にうずくまってしまう。そこから這い上がろうとするときに、ヨーダなどの歴代のジェダイたちが、レイに声をかける。その時に、たしかみんなが「Rise!」みたいなことを言っていた気がする。それを受けてレイは立ち上がり、パルパティーンを倒すことに成功。このシーンは、まさに“Skywalker”が“Rise”したシーンだった。

 しかし、レイがパルパティーンの孫であったことからもわかる通り、レイは血筋的には“Skywalker”ではない。ただ、その血筋的には“Skywalker”ではないレイが、“Skywalkerになる”シーンがある。それが、本作のラストのシーン。

 レイは、ルークの故郷であるタトゥイーンにルークとレイアのライトセーバーを埋めに行く。そこで、通りかかる人に「あなたは誰?」的なことをきかれて、「レイ・スカイウォーカー」と答える。それをルークとレイアが見守りながら、レイとBB-8が夕日に向かって歩いていくところで、本作は幕を閉じる。

 このシーンで、レイが“Skywalkerになった”と捉えるならば、先ほどのシーンも、“Skywalker”が“Rise”したシーンと捉えることが可能で、そもそもこのラストシーン自体も、ある意味で“Skywalker”が“Rise”したシーンとみることも出来るように思われる。

“スカイウォーカーサーガの完結”とは

 一方で、血筋的にSkywalkerであるカイロ・レン(ベン・ソロ)。7・8と、ダークサイドになり切れず、めちゃくちゃ葛藤しているシーンが描かれてきたレンだが、今作でついにダークサイドからの脱却に成功(つまり、カイロ・レンから、ベン・ソロへ)。

 ベンは、レイと共にパルパティーンを倒そうとするも、一人遠くの方に吹き飛ばされてしまう。ベンがレイの元に戻った時には、パルパティーンを倒したレイ自身が息をしていないような状態になっている。そこで、本作で何回か描かれる、「フォースで相手を治癒するやつ」でレイを生き返らせるも、それをやったことで、逆にベンの方が息を引き取ってしまう。ちなみに本作では中盤では、ベンの母親であるレイアも亡くなっている。

 つまり、アナキン・スカイウォーカー(=ダース・ベイダー)からルーク、レイア、そしてベンへとつながってきたスカイウォーカー家の面々が、本作をもって全員が亡くなったことになる。そういう意味で、エピソード4.5.6/1.2.3/7.8と続いてきた「スカイウォーカーサーガが完結した」ということなんだと思う。

続三部作のツギハギ感

 もともとスターウォーズシリーズはジョージ・ルーカスが監督をしている映画として有名だったわけだけど、今回の続三部作(7,8,9)では、ルーカスとは別の人物が監督をしている。当初は三部作それぞれで別々の監督でやる構想があったみたいだけど、結局、7と9をJ.J.エイブラムスが、そして8をライアン・ジョンソンが監督をした(最初9はコリン・トレボロウが務める予定だった)。

 そうした事情もあり、本作であるエピソード9は、同じJ.J.エイブラムスが監督をした7とのつながりがそれなりに意識されている。逆に言えば、8は、監督が代わったことが原因かはわからないが、7で積み上げた設定を生かさない部分がそれなりにあった。だから、9を見ている側としては、「9は8の方向転換を、さらに転換して7の流れに戻した」、もっといえば「9は、8をなかったことにしているのでは」と思ってしまう。わたしも劇場で9をみた当初は、同じようなことを思った。

 しかし、本当にそうなのだろうか。はたして9は8の流れを生かしていないのだろうか。これを、”名乗ること”と“血筋”というキーワードで考えてみよう。

8はなにを転換したのか

 では、そもそも8は何をどのように転換した映画だったのか。ここでは、これについては軽く触れるにとどめるが、おそらく世界中のスターウォーズファンや評論家が山のような文章を書いている。なぜかというと、それくらいに賛否をうむ転換が含まれていたからだ。

 8を見るまで、つまり7が公開されてからのみんなの関心ごとは、「レイは誰の子供なの?」という問題だったと思う。7は良くも悪くもファンのために作られたような内容で、4をなぞるような展開だった。4に続く5で、ルークとダース・ベイダーの関係性が明らかになるように、7に続く8で、レイの出生についての謎が明かされるはずだ。たぶんみんなこれを楽しみ8を見に行った。

 しかし、ふたをあけてみると、そこには若干肩透かしを食らうような事実が待っていた。それは、レイが「何者でもない人の子供」だったという事実である。

 たしかに8でレイの出生についての謎が明かされたわけだが、この答えがファンの間で賛否を生む。そもそも、エピソード4~6,1~3と続いてきたスターウォーズシリーズは、「スカイウォーカー一族」が光、もしくは闇と戦う様を描いた話であり、スカイウォーカーと何の関係もない人が主人公になっているなど、もはやスターウォーズではないのではないか。

 一方で、この“血筋から脱却する”という姿勢を、むしろ評価するという意見もあった。スカイウォーカーのような(ある意味で)すさまじい血統ではない名もなき人でも、強力なフォースを持つことが出来て、物語の主人公になれるんだ。エピソード8は、そのような可能性を開いた作品だ、と。

9の再転換

 そうした賛否を生む転換をした8に続く9は、その転換をさらに転換した。転換というより、7までの方向に押し戻したといってもいい。

 一番大きな再転換は、やはりレイがパルパティーンの孫だったという設定。レイは「何者でもない人の子供」どころか、「どちゃくそやばい人の孫」だった。

 結局レイだって血統じゃん。見た人の多くがこう思ったのでは。8で推しだした“血筋からの脱却”は、結局失敗に終わったのではないか…。

 これを、どちらの見方、つまり8の流れを受け継いでいるともとれるし、やっぱり受け継いでいないともとることが出来るように思う。それぞれ見てみよう。

9は8を受け継いでいる説

 9では、血筋的にスカイウォーカーであるベンが亡くなる一方で、血筋的にはスカイウォーカーではないレイが、最終的にスカイウォーカーを名乗ることになる。これは、“血筋”と“名前”にまつわる問題なように思う。というか、物理的(・生物的な?)な血筋と、精神的な血筋の問題ではないか。

 アナキン・スカイウォーカーからはじまり、ルーク、レイア、そしてベンと続いてきたスカイウォーカー家は、パドメ・アミダラやハン・ソロなどの血と交わりつつも、その生物的な血筋を連ねてきた。つまりベンは、スカイウォーカー家の血筋を生物的に継ぐ人だった。一方で、レイは生物的な血筋はスカイウォーカー家とは何の関係もない。しかし、最終的に彼女は自分をレイ・スカイウォーカーと名乗り、それを霊体(?)となったルークとレイアが見守っている。これをみれば、レイも、スカイウォーカーの血筋を精神的に継いだ人となったといっても過言ではない(レイは劇中で一度息を引き取ったような描写があるが、それをベンがフォースの力で助け、そのせいで逆にベンが命を落とすことになる。その意味で、レイはスカイウォーカー家のフォースを受け継いでいるともいうことが出来るかもしれない。しかし、生物的な血筋にこだわるならば、それでもやはりレイは、その点ではスカイウォーカー家とは無関係の人であるといえる)。

 つまり、たとえ生物的なつながりがなかったとしても、特定の“名前”(スカイウォーカー)を“名乗る”ことで、その“血筋”を継承することが出来るんだ。それが9が我々に向けたメッセージであるととることが出来るかもしれない。それは、広い意味では、8で示された“血筋からの脱却”の流れを継ぐもののように思う。なぜなら、9で示されたのは、“名前を名乗る”という行為が、生物的な血筋と、少なくとも同じくらいの力を持つということだからだ。かなり広く解釈すれば、「名乗ることで、わたしたちはみんなスカイウォーカーになれる」というメッセージなのかもしれない。

 ほかにも、9では、自分のルーツ(それは“血筋”のようなものを含めて)を能動的に探していこう、みたいな話が出てくる。物語の途中で、フィンのようにもともとストームトルーパーだったんだけど脱走しましたみたいな設定の女性のキャラクターが出てくる。彼女も、フィンのように、親が誰だかよくわからないみたいな背景を持っている。物語の終盤で、ランドが彼女に対して、親は?出身地は?みたいなルーツを問う質問をして、彼女が「実はよくわからないの」的なことを返すと、ランドは「今からみつけていけばいいんだよ」みたいな言葉を返すシーンがある。

 このエピソードや、レイのエピソードは、こういうことだと思う。つまり、一見受動的に決まってしまうと思われているルーツ(それは“血筋”でさえ)も、能動的な行為(名前を名乗る、探す、など)で、更新していけるんだよ、というメッセージではないか。そういう風に捉えれば、これは実は割と8の延長線上にある物語なのではないかと思うし、作ってる側も、そういう風にして何とか8との整合性を保ったのではないかと考えることも出来る気がする…。

 しかし、そのように考えていくと、やっぱり9は8を受け継いでいないようにも思えてくる。

9は8を受け継いでいない説

“スカイウォーカー”を“名乗る”必要性

 血筋的なスカイウォーカーであるベン・ソロ(カイロ・レン)が亡くなり、代わりに、血筋的には関係ないレイが、物語の終盤で「レイ・スカイウォーカー」と名乗る。つまり、自らで自らを“名乗る”ことで継承される精神的な血筋は、時として生物的な血筋に比類する力がある。それが、9が伝えたかったことかもしれない。

 しかし、その時に、なぜ“スカイウォーカー”という姓を用いなければならないのか、という問題が出てくる。8では、レイは「何者でもない人の子」として描かれた。そうした何者でもない人でも強力なフォースを持つことが可能で、物語の主人公にだってなれるんだ。そうした志向性を8は持っていた。それをそのまま9でも受け継ぐならば、そこでは、別に“スカイウォーカー”を名乗る必要はないようにも思われる。つまり、レイは、“レイ”のままで、強力な力を使うことだってできるし、正義を信じて悪を倒すことだってできるし、物語を主人公にだってなれる。そこでわざわざレイに「レイ・スカイウォーカー」と名乗らせ、スカイウォーカー家を精神的に継承する存在にならせなくても良いように思われる。

 これは、結局7までの流れ、つまりスターウォーズとはあくまで「スカイウォーカー一族の話なんだ」という方向性に戻していると考えてもおかしくない。つまり、やはり9は8を受け継いでいないかもしれない。

 しかし、この点については、すこし留保をつける必要がある気がする。それは、前回のレビュー後編でも示した、スカイウォーカー家の生物的な血筋から精神的な血筋への変化という点だ。

 エピソード1~8まで(というか9でレイアやベンが亡くなるまで)は、なんだかんだいって生物的な血筋としてのスカイウォーカー家の話だった。しかし、9の終盤でそれが途絶え、代わりにレイが精神的な血筋としてスカイウォーカーを継ぐ。つまり9には“スカイウォーカー”という姓の扱いについての変化があり、それをふまえれば、9は何か新しい方向を示したということも出来る。それがたとえ“スカイウォーカー”という超有名家族の姓だったとしても。だから、レイが“スカイウォーカー”という姓を名乗ることになったから、9も“血統主義”的な何かに回帰したと判断するのは、すこし違うかもしれない。

 また、これは先にふれたように、これが「スカイウォーカーサーガの完結編」として位置づけられている以上、レイがスカイウォーカーを継承することは、展開上仕方ないともいえる。まさに、それはここまで使ってきた言葉を使えば、スカイウォーカーの夜明け=精神的に継承される新しいスカイウォーカーの誕生ということになるからだ。

レイがパルパティーンの孫である必要性

 むしろ今回の9が8の方向性を受け継いでいないとすれば、この点の方がそれにあてはまるだろう。つまり、レイがパルパティーンの孫だったという事実だ。

 8でスノークがあっけなくいなくなってしまったことや、9でカイロ・レンをベン・ソロに帰還させる(つまりダークサイドからライトサイドへと戻してあげる)ために何かしらの巨大な悪が必要なこと、などの物語の展開上、パルパティーンが必要になることはわかる(それでもパルパティーンがここで出てくるのなら7,8から何かしら伏線は欲しかったけれど)。しかし、そのことと、パルパティーンの孫がレイという設定の必要性は、また別問題だ。

 レイがただの何者でもない人の子供としてベンと協力してパルパティーンと戦い、そのせいでベンは命を落としてしまうけれど、代わりに自分が精神的な血筋としてスカイウォーカーを継ぐ。その流れでも別に構わなかったように思う。つまり、先の「レイが“スカイウォーカー”を継承する」という問題は、いくつかの点で(ある意味で)避けられなかった事態なのかもしれないが、レイがパルパティーンの孫という設定は別になくても続三部作の本質のようなものが(仮にあるとすれば)、なくなってしまうというようなものでもない。

 確かにレイのフォースの覚醒っぷりはすさまじかったし、ほんとに何者でもない人の子供なの?っていう感じだったけど、でもそれはアナキンだってそうだったわけだし、強力な力を持ってるからといって、強力な力を持った人の子孫とは限らない。

 だからこの点については、なくてもよかった設定だと私個人は思う。

まとめ

 このレビューも長々としたものに、そして内容も非常に錯綜としたものになってしまった。ここではそのまとめを、簡潔に、かつ箇条書きで示す。

「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」は…

・とりあえず、めっちゃよかった。泣いた。そのうえで、

・設定の展開が急だった。続三部作のツギハギ感が否めない。

・特にレイがパルパティーンの孫という設定は、急だし、その設定にする意味があまりないように思った。これが原因で、9は前作である8の方向性を受け継いでいないと思われても仕方がない。

・レイが最後にスカイウォーカーを名乗るのも、ある意味で“血筋”を中心に据えるかつてのスターウォーズに回帰、つまりこれも8の方向性を受け継いでいないということも出来る。しかし、スカイウォーカーという血筋が、生物的な“血筋”から精神的な“血筋”へと変容している点に注目すれば、それが「ある名前を“名乗る”などの能動的な行為で、一見受動的に決まってしまうと思われている“ルーツ”的なものを自らで決定していけるんだ」、というメッセージを発しているともとることが出来る。

・それをふまえれば、今回の9は、一概に、(少なくとも部分的には)、8の方向性を7のそれに戻したとはいえないように思う。つまり、続三部作は、その急な設定転換や、おそらくオチを決めずにそれぞれを作った結果のツギハギ感がありつつも、続三部作として何らかの固有のメッセージを発しており、それがスカイウォーカーサーガの完結編として、そしてスカイウォーカーの血を乗り越えていくものとして、存在している。ともいえる気がする。

最後に

 今回のレビュー/考察は、続三部作にディズニーが絡んでいることや、その他もろもろの事情などをほとんど考慮していない。そもそもスターウォーズは、そんなに難しく考えて見るものでもないのかもしれない。とにかく、オープニングで曲が鳴った瞬間にわくわくしたし、ベンが後ろを振り返ればそこにハン・ソロがいたことや、ランドがめちゃくちゃな数の船たちを連れてきてくれたシーンとか、単純にアツいシーンがたくさんあった。2時間20分という時間をそうして楽しめたことが、本作が素晴らしい映画だったということの何よりの証拠のように思う。

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